ルーマニア 晴れ時々曇り

ルーマニア・ブカレストに暮らす小生の備忘録。 連絡は、次のアドレスまで。迷惑メール以外は歓迎します。 Bucurestian(at)gmail.com

Thursday, September 28, 2006

BUCAREST FRANCOPHONE

ロゴマーク

先日ブカレストで世界的な催事があった。
BUCAREST FRANCOPHONE。フランス語である。
9月22日~30日の間に第11回フランコフォニー・サミットがブカレストで行われたのだ。
ところで、フランコフォニー・サミットとは、何であるか。「サミット」とは、英語で「頂上」を意味することは中学生の英語の授業で学んだが、日本では報道で見聞する「主要先進国首脳会議」という名詞で利用されることが多いように思う。ここから察するに最高会議の意味を想像する。そして「フランコフォニー」であるが、「フランコ」の箇所にフランスに関係があると想像する。「フォニー」は「Phone」であることから「音」だ。二つを合わせて「フランス語」と解釈した。そこで考え出た回答は「フランス語最高会議」。ただ、しっくり来ないので更に考えを進めて出た答えが「フランス語話者最高会議」。

周りのルーマニア人にも尋ねては見るものの、詳しく説明できる人間が小生の周りいに居ないせいか、それ以上の回答は返ってこない。それ以上の回答を望んだ小生の質問とは、こうだ。
「フランス語話者の最高会議が、何故ルーマニアで開催されているのか」

ルーマニアでの公用語はルーマニア語である。人口数はともかく少数民族としてあげられるところにおいては、ハンガリー語、ドイツ語、ブルガリア語等がルーマニア國内のそれぞれの地域で話されている。これらにフランス語は無いのである。一方でルーマニアとフランス両國との繋がり意外に強く、黒海と大西洋の距離ほど遠く考える必要はない。ブカレストが、かつて「東欧の小パリ」と呼ばれていたことからも伺え知れるだろう。因に、日本國内に溢れる「小京都」のようにインフレされた言葉と同一俎上にするべきではない。余談だが、ブカレストには凱旋門もあり、フランス人の人名にちなんだ住所(通りや広場名)が多くある。
さて、フランス語であるが、これも意外なことに通じる場合が多い。この言葉は、小生にはちんぷんかんぷんであり、フランス映画からエールフランス機内でのアナウンスに至るまで、シャンソンを聴き流すくらいな楽しみと興味しかない小生には、大変難しい言葉というイメージがあるだが、当地の人たちには理解する人が意外と多いのである。私の友人にも殆どは英語を話すのだが、その半分以上の数がフランス語が話せるという。そのなかの一人の両親は英語が出来ないが、訪問客の小生に気を遣ってルーマニア語でなくフランス語を話してくれたので、困ったことがあった。

また、近所に住む、年金生活者で音楽家だった老人はこう回答した。
「100年程前のブカレストでは、富裕層はその子をフランスに留学させていた」
地理的には近いと言えない両國であり、昔はそれなりの移動時間が必要だった故に、更に遠かったであろう両國である。地理的に言えば、戦後「東ヨーロッパとの唯一の接点」として情報が集まったウィーンであるべきだ。ウィーンには地理的という理由だけでなく、ハプスブルク家が崩壊するまではヨーロッパの首都と言っても良い都市であり学問も芸術も集中していたと考えられるからだ。
では、何故ウィーンを越えて、フランスへ向かったのか。
言葉の問題という読者諸氏もいるだろうが、これだけでは説得力に欠ける。ルーマニア語は確かにラテン語が起源となるフランス語と兄弟の関係である。併し、最も近い兄弟はイタリア語であることからも、決定的な回答とは言えない。
いずれにせよフランスという魅力的な目的地が当時からあったのは興味深い。このウエブログで既に何度か触れているオリエント・エクスプレスがパリからブカレスト経由でイスタンブールへ開通したのが1883年のことであるから、その影響も多少はあるのだろうか。

ここまで書いて、ふと思い出したことがある。
小生の友人がかつてルーマニア運輸省に勤めていた頃の話である。その晩、小生は彼とその細君を食事に招待し友好を深めていた時の言葉が忘れられない。
「ルーマニアとトルコとの鉄道輸送交渉の書類を明朝までにフランス語で作成しないといけないので、この辺で失礼するよ」
彼自身はフランス語ができても堪能という方でもないらしく、堪能な細君が付きっ切りで一晩頑張るとのこと。この時に、高校生時代に英語教師に「ヨーロッパの共通語はフランス語かドイツ語」と聞いていたことを思い出した。
その彼は今や民間へ転職し、一方の細君はいまだ彼の細君であるが、「細君」とは都合の良い漢字だなと思う程にまで、変身してしまった。

前置きが長くなってしまったが、フランコフォニーサミットについて調べたところ、その言葉の曖昧さに苦しめられた。まず小生がたどり着いた「フランス語話者最高会議」は、概ね一致していた。併し、その参加國(=構成国)は決してフランス語が公用語になっている國とは限らない。これは開催國のルーマニアが例えの筆頭と言えよう。また構成國と言っても、本加盟、準加盟、オブザーヴァーと3種に分けられる。ルーマニアは本加盟であるが、似たような國はヨーロッパ内でブルガリアとモルドヴァ。両國ともルーマニアの隣國である。他のヨーロッパ内の本加盟の國はいずれもフランス語が公用語として用いられてるところばかりである。本加盟國でありフランス語が公用語でない、ルーマニアのようなケースにはベトナムやレバノンが挙げられる。この両國は、既に第7回と第9回のフランコフォニー・サミットを開催している。
言葉の曖昧さに惑わされずに言うと、「フランス語話者がいる國(フランス語文化圏や旧植民地)とそれらとの関係の強い國で構成されている本加盟國を中心とした、政治的・経済的もしくは文化的発展を目指して構成された共同体の最高会議」と考えて良いと思われる。
気になった読者諸氏には、下記の参考サイトでご理解を深めることを薦めたい。

一方サミットには、モナコ公國のアルベール2世閣下やフランス共和國のジャック・シラク大統領閣下もブカレスト入りするというので、市内の警備は最高レヴェルで保たれていた。市内、特に中心部には警備関係の人間と車両がどこからでも目に付いた。反面小生の暮らす通りは普段は交通量が多いのだが、この間は一般車両の通行が禁止され、この1週間余りの間は平穏で素晴らしかった。他方、珍しい文化イヴェントが多く開催されたのは嬉しかった。参加國(取り分けアフリカ諸國)から出演したグループの民族楽器を使ったコンサートは良かった。
ところでこのサミットで何が採択されたのか。小生は全く無関心なので未だに知らないのであるが、シラク大統領閣下が演説で、この夏にイスラエルと実質交戦状態であったレバノンの参加を巡って議長國ルーマニアのバセスク大統領閣下を強く非難していたことだけは、知っている。
(10月3日執筆完)

参考サイト
BUCAREST FRANCOPHONE http://www.bfranco.ro/
l'Organisation internationale de la Francophonie http://www.francophonie.org/
長谷川秀樹フランス研究 http://www1.odn.ne.jp/cah02840/HASEGAWA/

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Wednesday, September 27, 2006

2006-07 UEFAチャンピオンズリーグ 4(グループリーグE 第2節)

観戦チケット
右側に2枚の半券があった


この夜観戦した試合は、5年連続フランスチャンピオンを続けるオリンピック・リヨンを迎えてのホームゲームである。2005年12月から改修中であったステアウア・ブクレシュティのホームスタジアムでの記念する初戦でもあった。
オリンピック・リヨンはホームで行われた第1節をレアル・マドリー相手に2-0で完勝しており、その日キエフで大勝したステアウア・ブクレシュティと並んで勝ち点3で並んでいた。この夜の試合に勝った方が勝ち点6ということでグループ内の4つのクラブで首位を堅持できるのである。
大入りとなったステアウア・スタジアムでは、ほんの一角のみがオリンピック・リヨンのサポーターであったが、その殆どがスーツ姿であった。これは現在ブカレストで行われているフランコフォニック会議の出席者であろう。
21時45分キックオフという時間が、ブカレストから西に車で3時間の距離にあるクライオヴァに日帰り出張を終えたばかりの小生には有難かったが、前夜4時間の睡眠であった小生には疲労の原因になることは容易に想像がついた。しかも、試合に負ければなおさらである。

満員の新スタジアムはルーマニアのスタジアムとしては第一級のもので、外國で中継されても恥ずかしく無いといえる出来栄えであった。きれいな芝のピッチとそれを照らすカクテル光線が美しかった。このようなスタジアムには試合前からただならぬ熱気があった。

試合前のセレモニー


同行した友人は試合前に言った言葉が印象的であった。
「ルーマニアのスタジアムでこれほど興奮した雰囲気は初めてだ」
彼はシーズンチケットを購入しているほどの熱心なサポーターである。ステアウア・ブクレシュティのサポーターを、特に熱心なサポーターをルーマニア語では「ステリスト」という。小生も彼もステリストだ。

なるほど、小生も予選リーグでもステリストで満員のスタジアムを経験したが、この夜は違った雰囲気が感じられた。何よりも相手が違った。フランス代表やブラジル代表が何人も活躍するクラブである。

試合の経過を簡単に紹介する。
前半終了直前にステアウア・ブクレシュティのゴールキーパーがキャッチングミスをして先制を許した。強豪相手にミスするようでは勝てないものだ。小生は100%の力を出してようやく辛勝できると踏んでいただけに、非常に残念であった。後半にはコーナキックからの失点で0-2となり、終了間際にも1点を献上して0-3の完敗であった。

報道によると観戦したステアウア・ブクレシュティ会長のジジ・ベカリー氏はこう発言したそうだ。
「15分観戦して、このチームとは100年戦ってもゴールを奪えない」。
前半はそれなりに互角ではあったが、後半は息切れの様子であった。体力だけでなく、集中力が散漫と言えば良いか。正直、オリンピック・リヨンの選手の活躍には舌を巻いた。素晴らしい動きと技術をこの夜に見た。

小生が考える敗戦の原因は、ステアウア・ブクレシュティ得意のサイドからの攻撃が全く封じ込められたこと。併し同行の友人は「力の差」で片付けてしまった。それを言ってしまえば、元も子もない。

併し、意外なことに敗戦濃厚の時間帯になっても家路を急ぐサポーターが殆どいなかった。前節のキエフのスタジアムでの一戦をテレビで観戦した時には空席が見る見るうちに増えていったのと対照的だ。
そして、試合が終われば、野次が飛ぶわけでもなく拍手で両チーム選手の退場を迎えていた。暫くして日付が変わり、スーツ姿の相手チームの関係者がピッチの脇を通って帰る時にも、まだいたステアウア・ブクレシュティのサポーターがフランス語で労いの言葉を掛け、オリンピック・リヨンの会長が手を振るといった微笑ましい光景があった。試合中の野次からは考えられないこれらの光景に驚いたものだ。観客が帰り、寒空の下ではあったが、爽やかな気分に浸れた。

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Thursday, September 21, 2006

ガレ

カタカナで「ガレ」と綴ると小生には二つの意味が交錯する。
それらは実際のところ互いにおいて大いに関係がある。
併しながら、その言葉の使用法に100%の理解を得るには少々複雑だった。

1846年にフランス・ナンシーに生まれたエミール・ガレ(Emile Galle,-1904)は、いくつかの顔を持っていたが、現在においてこの名前に反応する殆どの人はその芸術家としてのものにであろう。彼が創始者となったガラス工芸技法、もしくは彼がその技法で製作した作品が「ガレ」と呼ばれている。他方、もう一つの意味があることを冒頭に述べた。それは、同じ技法を使用もしくは同じような仕上がりをされた工芸品(言うならば「ガレ風」)をも「ガレ」と呼ぶことにある。
前者は、美術品もしくは骨董品的価値からはエミール・ガレ本人の作品でなければならない。後者においては前述の通り複製品である。複製品といえどもエミール・ガレの作品のデザイン的な意味でのコピーではなく、その技法の利用を経て出来上がった「ガレ風ガラス工芸品」と言える。実際のところ、これら「ガレ風ガラス工芸品」には「galle」との文字とともに「TIP」という文字が見える。これはルーマニア語であるが英語で言うと「TYPE」に相当する名詞である。この3文字がないと贋作ということになるので重要である。
因に、当地では「ガレ」とは創始者の作品の真贋の為の言葉ではなく「ガレ風ガラス工芸品」として使われている。ルーマニア語においても「ガレ風ガラス工芸品」は名詞として「galle」と一般に使われている。補足するとエミール・ガレ本人の作品であっても同じ言葉を使う。


「ガレ」ランプと奥に花器


ヨーロッパでアール・ヌーヴォーが成熟する頃にエミール・ガレが亡くなった後、その伝統はフランスからヨーロッパ諸国に弟子や職人を伝道者として伝播することになる。当地ルーマニアにおいては、いくつかのルートで伝わったようだ。エミール・ガレのイタリア人弟子がルーマニアに住みその技術を伝えたという話と、ナンシーで学んだルーマニア人が母國に戻ってきて、その技術を伝えたという話。いずれにせよこれらの話はルーマニアのブザウ(Buzau)に辿りつく。

ブカレストから北北東の方角へ列車で2時間弱にブザウ県の県庁所在地ブザウ市がある。ガレ風工芸品とガラスの街として有名である他は、これと言ったものは無い。トランシルヴァニアの都市クルージ・ナポカ(Cluj-Napoca)で19世紀に始まったウルスス(URSUS)という銘柄のビールが、それまでのルーマニア史上最大の米貨3000万ドルを投資して新工場を最近稼動させた話はあるが、ブザウ県全体を見渡せば第一次産業の土地と言って良い。因に最近ビール瓶を茶色から緑色にかえたURSUSの工場は他にティミショアラ(Timişoara)とブラショフ(Braşov)にもあり、第一号のクルージ・ナポカと合わせて計4工場体制で全國に流通している。

今回は日本からいらしたお客様とブザウにあるガラス製品会社を一緒に訪ねた。商談である。この会社はガレ風ガラス工芸だけではなく、各種グラスをドイツ、オーストリア、イタリアそしてアメリカ等へ輸出している。中でもドイツの有名なゼクト(シャンパン)「Menger-krug」の専用グラスを請け負っており、それらはドバイの6つ星ホテルでも見掛けることができるということだ。なお、このグラスはMenger-krug社のホームページの表紙に写っている。

見学したギャラリーにあったガレ風ガラス工芸品は、ランプやランプシェードそして花器が殆どであったが、セット品を除いてデザインや大きさは異なる。全工程が手作業の完全ハンドメイドであることが「ガレ」の人気の一つだろう。デザインは、エミール・ガレが好んでいたように蜻蛉や花などの生物と風景といった自然に由来するものばかりである。絵付けの作業場には、塗料として使用する薬品が嗅覚を刺戟するが、熟練の筆使いは見事なものだった。


絵付け職人の技 60人もの絵師を抱える


事前にガレについての勉強を行ったのであったが、今回経営者からきいた話はガレについて以外にも共産党一党独裁時代という現在とは異なる社会体制下でのブザウでのガラス製品産業に及び、大変参考になる興味深い話ばかりであった。

この「ガレ」つまりルーマニア産「ガレ風ガラス工芸品」は、日本では人気でありその需要も増えつつあるとのこと。それらしく言えば「静かなブーム」と言う言葉で宣伝されかれない頃合ではないかと考える。「ガレ」についてはこれまでにも日本の知人やお客様からの話を聞かされることも良くあったが、小生は余り興味がなかった。ユーゲント・シュティールを除いたアール・ヌーヴォーで興味があるのは、アロフォンソ・ムハのみであるからだ。併し、今回その製作現場とギャラリーを見学して随分と興味が湧いたのであった。土産物の選択余地の少ないルーマニアのなかでその主要な地位を占めている「ガレ」。小生の次の帰國には小さな花瓶でも持って帰ろう。

最後に冒頭に三度戻るが、簡単に理解して貰える例えは、「シャンパン」である。フランスのシャンパーニュ地方産の発泡ワインとその他の産地の発泡ワインを考えていただければ良い。つまり、これからは「ガレTIP」と呼べば良いのだ。

参考サイト
URSUS www.ursus.ro/
MENGER-KRUG社 http://www.menger-krug.de/

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Sunday, September 17, 2006

2006-07 UEFAチャンピオンズリーグ 3(グループリーグE 第1節)

2006年9月13日現地時間21:45。ウクライナの首都キエフのオリンピスキースタジアム。
ステアウア・ブクレシュティの10年振りとなるチャンピオンズリーグのグループリーグ初戦がキックオフ。

前日の12日に今シーズンのUEFAチャンピオンオンズリーグは各地で始まった。
ステアウア・ブクレシュティの入るE組の2試合は、この日が初戦である。相手はディナモ・キエフ。第二次世界大戦中にドイツ占領下のキエフでナチスと試合をしたあのディナモ・キエフである。
E組のもう1試合は、フランス・リヨンで同時刻に始まっている。こちらのカードは、オリンピック・リヨンとレアル・マドリー。ヨーロッパマスコミのこの日のE組予想は、リヨンで首位争い、そしてキエフでは3位争いとうものであった。その3位争いの前評判であるが、首位争いの2クラブと異なり、ディナモ・キエフの情報が少ないのでよく分らない。3位争いということなので、実力はほぼ同じかと思いながら、唯一の公平そうな意見を近所に見に出掛けた。ベッティングメーカーによるサッカー籤のオッズである。そこで見た賭け率はディナモ・キエフの1.65倍に対してステアウア・ブクレシュティは、なんと4.15倍。ホームのディナモ・キエフに分があるとは言え2倍以上の差があるではないか。このオッズを見て投票することにした。別に賭け事にしに来たつもりではなかったのだが。応援にも力が入るというものだ。

サッカー籤


試合はステアウア・ブクレシュティが開始3分に1点目をゴール。間もなく同点に追いつかれるものの、終わってみれば1-4と大勝。大きなオリンピスキースタジアムでは夜が更けるにつけ空席が目立っていくのがテレビからもよく分った。

翌14日発行のSPORT TOTAL紙 1面


試合も大勢が決した頃、小生が心配したのが、敗戦濃厚のディナモ・キエフのサポーターのことである。
サッカー観戦は結果としてストレスの発散の場としても活用されているのは、周知の通りだ。彼らにとってこのような試合は鬱憤の貯まる試合であり、期待した発散とは反対に不快感を募らせることになる。そんな時に、アルコールは、それらの鬱憤の発散の手助けを行うことも可能である。

1年前の2005年10月12日。冷たい雨の降るこのスタジアムに小生はいた。
カードはウクライナ代表対日本代表の國際親善試合。結果は1-0でウクライナ代表の勝利であった。途中から10人で戦った日本代表は、ドロー間際の89分にPKで決勝点を奪われ敗れた。MF中田英寿とGK川口以外はまるで活躍しなかった。記憶にそれほど残っていない平凡な試合であった。併し、鮮明に覚えていることがある。それはビールの販売がなされていたことである。アルコール0%のノンアルコールビールのことではない。
ヨーロッパ各國の各スタジアムで試合観戦のためのビールの販売なんて聞いたことがない。
一人当たりの年間ビール消費量世界第1位のビール王國チェコにおいてもノンアルコールビールのみ販売されている。2004年春、日本代表の試合をプラハで観戦した際にその点を販売員に尋ねると「サポーターは過激だからね。でもノンアルコールビールでも美味しいよ」と涼しい顔をしていた。ルーマニアにおいては、さきの予選リーグ観戦の際にはコーラしか販売されていなかった。それも2ℓの決して冷えていないペットボトルのコーラをコップに注いでの販売。良い商売だと思った。ノンアルコールであろうとビールはご法度というのがルーマニア流かもしれない。次回に調べるとしよう。
この異例とも言えるサーヴィスのあるウクライナのサッカー観戦は、翌朝のスポーツ紙にも紹介されていた。ルーマニア人ジャーナリストもさぞかし驚いたのであろう。堂々とした写真と見出しである。

翌14日発行のEURO FANATIK紙特別版 8,9面
"CU BEREA LA MACI"
「ビールで試合観戦」

このオリンピスキースタジアム。大きいせいか、天気のせいか、小生が観戦した際は全席の25%程度しか埋まらなかったのであるが、警備に来ていた各種警察関係者は推定で500人はいた。騎馬隊も数隊配備されていた。その大多数が暇そうにしており、ルーマニア人がサッカー観戦でするように、ヒマワリの種を食べていたのが印象的だった。大量の殻は、ルーマニア全土でそうであるように素直に引力に従っていた。そしてビールを運ぶ小生を見る彼らの恨めしそうな青い瞳も忘れられない。ビール販売のもたらす騒ぎを想定した警備力だと納得したものだ。それも抑止力と言う点でである。この夜のディナモ・キエフのサポーターにとっても席を立つと、酔いが覚める思いがしたことであろう。
事情を知っている小生が少々心配したのは、観客の数がその時と大きく違うことであった。今考えると、1000人以上の警察関係者が配備されていたのかもしれない。

ところで、リヨンでの一戦はホームのリヨンが2-0のスコアでレアル・マドリーに完勝。試合のダイジェストをテレビで見たがフランスリーグ5連覇中のこのクラブは、試合で圧倒していた。2点で終わったのが不思議なくらいである。ステアウア・ブクレシュティの次節は9月26日にこのオリンピック・リヨンをブカレストに迎えて行われる。小生はスタジアムで観戦予定だ。

参考サイト
SPROT TOTAL http://www.spt.ro/

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Saturday, September 16, 2006

オリエント・エクスプレス


オリエント・エクスプレス(最後尾)
ブカレスト北駅


拙稿「イスタンブール旅行 vol.2」でオリエント・エクスプレスに触れた。イスタンブール・シルケジ駅についてのくだりである。驚いたことに先日そのオリエント・エクスプレスに出会った。しかもブカレストにおいてである。

先週末にシナイア旅行をした。その様子は「シナイア旅行」として書いた。このオリエント・エクスプレスに出会ったのは、シナイアへ向かう朝のことであった。
ルーマニア随一の規模を誇るブカレスト北駅(Gara de Nord)は、オリエント・エクスプレスが活躍したころの往年の面影はなく、現在は、ヨーロッパの首都にある主要駅と比較した場合間違いなく三流である。
ブカレスト北駅の東端のホームに佇む群青色のその一編成の姿は華麗の一言に尽きる。余りにも不釣合いな駅舎とその設備に、小生はルーマニアにいることを再認識するのである。ところで、オリエント・エクスプレスと言えば、アガサ・クリスティ(Agatha Christie)の名著「オリエント急行殺人事件」と、その映画が大変有名であるが、目の前にすると、溜息が優先で思い出すことも忘れていた。

そのホームへのアクセスは厳重な警備で禁止されており、乗客以外はマスコミを含む関係者にのみ許されている。線路を2本隔てた隣のホームもその東側は警備員を配置している。彼らは制服につけられた写真入り身分証明書から國鉄職員であることがわかるが、警察も配置されていた。乗客は居らず、こちらも華麗な制服に身を包んだ乗務員が客車から見えた。列車は前日もしくはそれ以前に入線し、ブカレスト市内にホテルに宿泊している乗客を間もなく迎えるのであろう。

11両編成の各車両の側面には中央のエンブレムを挟んでサボ(サイド・ボード=案内板)が2枚掲げられており、左側には「ISTAMBUL-BUCURESTI-SINAIA-BUDAPEST-WIEN-VENEZIA」と経路が、右側には「VENICE SIMPLON-ORIENT-EXPRESS 1982 2006」と列車名が読み取れる。前者は発音記号はともかく各國語が尊重されているが、後者は「VENICE」と英語表記になっているのが気になった。もっとも「VENICE SIMPLON-ORIENT-EXPRESS」は固有名詞としても有名なのだが。気になったのはもう一点。トルコからルーマニアに向かうにはブルガリア東部を縦断が不可欠であるのだが、ブルガリアの地名は見当たらない。恐らくは各國境駅での停車のみでハイソサイティーであるべき乗客はブルガリアの地を踏まなかったのではないか。とはいえ、車内で過ごすことに意義がある旅であるはずだから、それはそれで良いのだろう。

改めてサボを見て、これからシナイアへ向かう小生と客人は溜息を吐いた。
我々はルーマニア國鉄の最高級列車インターシティに乗車して一足先に北へ向かったのだが、車窓からオリエント・エクスプレスの先頭にある牽引車を見てがっかりした。ルーマニア中にある珍しくも無いルーマニア國鉄の電気機関車だった。グレーが基調で赤のラインのこれまた不釣合いなものであった。國際列車が國境を跨いだ、もしくは跨ぐ直前の駅において乗務員と牽引車の交代を行うのは知っているが、この特別編成にはあまりにも似つかわしくなかった。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の新年コンサートにジーンズで入場していた旅行中の青年を思い出した。もっとも彼は立見席で床に座っていたのだが。

ところで、このオリエント・エクスプレスは、現在は特別列車として不定期運行をしている。乗客はツアー形式で募集されるので、高額な参加費で乗車可能だ。併し教養が無いと大恥をかくことだろう。詳細は参考サイトをご参照のこと。

参考サイト
オリエント・エクスプレス http://www.orient-express.co.jp/

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シナイア旅行 Sinaia, Romania


ペレシュ城


イスタンブール旅行から帰って来た次の週末、日本からの来客とSinaiaへ旅行をした。小生にとっては10数回訪問した街であるが、ブカレストから日帰りできることと、ドラキュラ城として知られたブラン城(Castelul Bran)と違い観光地としての役割を観光客に果たす観光地という2点において、客人に薦めることのできる唯一といっていい目的地である。
SinaiaとはPlahova県が管轄する街であり、ルーマニアでも有数の観光地である。もう少し親切な説明を差し上げると、地理的にはSinaiaは首都Bucharestの北方約120kmに位置し、ガイドブック等では「Carpati山脈の真珠」という観光地に良くあるフレーズで紹介されている。
東西に延びるこの山脈とほぼ直角に交差するプラホヴァ渓谷にシナイアはある。渓谷は南は県都Ploieşti、北はBraşovを両端とし、その底を北からPrahova川が流れており、その水はやがて大河ドナウへと至る。因にこの渓谷は、Carpati山脈の北部トランシルヴァニア地方と南部に広がるワラヒア平原との数少ない交通上の動脈で道路も鉄路も敷かれている。同時に欧州連合とルーマニアとの重要案件である「ヨーロッパ第4回廊」の整備重点区間でもある。Sinaiaはこのような計画のはるか昔から山に囲まれた渓谷にある小さな街であった。今の観光地としての繁栄までは、寒村といっても良いであろう。
現在のSinaiaは、夏は避暑地として、冬はスキーリゾートとして観光客を迎えるのである。
Bucharestでは少々残暑が感じられるこの季節であるが、「Carpati山脈の真珠」ではすっかり秋が始まっていた。
Sinaiaの見所のハイライトには、文句なしにペレシュ城(Castelul Peleş)という素晴らしい19世紀のドイツ建築を挙げる。その他にもペレシュ城の近くにあるぺリショール城(Castelul Pelişor)とシナイア修道院(Mănăstirea Sinaia)もあるが、満足度ではペレシュ城には及ばない。
ところで、何故ドイツ建築かと言うと、1881年に即位したルーマニア王國初代國王としてドイツから迎えられたカロルⅠ世に由来する。この城はこの國王の夏の離宮として建設されたからである。
内部は撮影不許可で、入場者は履物を覆う形の室内穿きを義務付けられる。自由に見学も出来ず、言語別にツアー形式をとり、ある程度同一言語の見学者が集まればガイドがエスコートをしてくれる。
小生は欧州各地で観光地として公開されている貴族の城やシャトーを多少見学しているが、このペレシュ城は、そららの中でも上位へと記憶された。客人も大満足であった。

参考サイト
Muzeul Naţional Peleş http://www.peles.ro/
Mănăstirea Sinaia http://manastireasinaia.3x.ro/

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Thursday, September 14, 2006

イスタンブール旅行 vol.5

最後は食の話題。
旅行の醍醐味の欠かせない要素のひとつは、疑いなく飲食である。
世界三大料理の一角トルコ料理であるが、どういうわけか物知りの講釈において挙げられる順番はフランス料理、中華料理についで3番目である。最後に挙げるが故に講釈が始まると言えばそれまでではあるが。
今回の旅行では勿論トルコ料理を積極的に食べた。併し、初めての経験ではなく、それらがルーマニア料理もしくはバルカン半島にある料理との差異を感じる程度であったので味の方では大した驚きがなかったのだが、そのものの背景(名称や形状等の差異の部分)が興味深かった。
例を挙げると、ルーマニア料理で有名なものに「チョルバ」というものがある。一語で表現するとスープだが、チョルバとは酸味を伴うスープを指す。ルーマニア語では酸味のないスープは、別の単語(スパ)で表すので、ルーマニアにおいては両者はしっかりと区別される。併し、ここトルコにおいてはスープのことを「チョルバ」という。酸味があろうがなかろうがそれらは「チョルバ」なのである。

旅行先での食の楽しみは、何も高級レストランに限らない。
世間でB級グルメと言われる、食堂、屋台そしてファーストフードこそ庶民の食生活を体験できるのである。
旅行先でのB級グルメは基本的に現地でしか食べられないものである。イスタンブールにおいて有名なこのB級グルメといえば、旅行ガイドブックでおなじみの「鯖サンド」もしくは「鯖バーガー」が挙げられる。ガラタ橋の南側、エミノニュ(Eminonu)桟橋そばで名物として有名である。内容は鯖の切り身の塩焼きをパンで挟んだもので、レモン汁を好みでかけることもできる。但し、今回はこの鯖サンドは食べる機会がなかった。初日にこの桟橋を歩いた時は既に記したように日の出の時分であり、店は出ていなかったのだ。かつて頬張ったこともあるので、今回は特にこだわらなかった。

イスタンブール及びトルコにおいてのB級グルメ代表格は「ドネルケバブ」である。こちらは、名称はいろいろあるが、すでにヨーロッパ中に浸透したファーストフードである。最近は日本でもお目に掛かれるそうだ。この料理の説明であるが、言葉での表現は難しい。専用の調理器を使用する。縦に固定した肉の塊を回転させて電熱もしくはガスで焼き、焼きあがった箇所を順に削る。そしてそれを薄いパンに野菜やスパイスそして調味料等と一緒に巻いたものである。パンも数種類あり他のものが使われることもある。レストランだと皿に盛って提供するところもある。小生の暮らすブカレストでも「シャオルマ」の名称でポピュラーなファーストフードであり、なかには絶えず客が列をなしている名店もある。小生が食べた最高のケバブは、そのブカレストの店ものとベルリンのレオポルド広場で食べたものであり、イスタンブールで何度か食べたものはそれらを超えられなかった。トルコにおいて國民的ファーストフードであるから名店は必ずあるはずだ。そこには逸品があるに違いないのだが、どこにその名店があるのだろうか。次回は探して訪問したい。読者諸氏の情報も歓迎する。ただ、羊肉がメインで牛肉と鶏肉がそれに続くトルコにおいて、羊肉嫌いの小生の希望は極上の牛肉もしくは鶏肉を名店の必須条件にお願いしたい。

今回が初体験となるB級グルメが「ヒヨコマメご飯」である。これは小生が便宜上つけた名称であり、現地で何と言うかは知らない。内容は炒めたご飯とヒヨコマメというシンプルなもので塩味が絶妙である。オプションとして、塩茹でした鶏肉を裂いたものと、ソースが選択できる。ソースは試さなかったが、鶏肉はリクエストした。胡椒を少しふり掛けてもらったヒヨコマメご飯と鶏肉の料金は共に1YTL(トルコリラ)なので計2YTL。小腹が空いた時にお勧めできる手頃な一品であった。熱い中國茶が合いそうであるが、屋台にはトルコ名物の紅茶「チャイ」のサーヴィスのみであった。


ヒヨコマメご飯の屋台と女主人




西瓜の切り売り。


旅先の醍醐味を満足したら、最後の夕食は日本食だ。
油っこいトルコ料理にそろそろ飽きたこともあるが、魚が食べたくなったと言った方が的確か。
ハイアットリージェンシーホテルにある日本食レストラン「豊レストラン」へ向かう。
鹿島建設が建築した日本風もとい日本建築のレストラン。雰囲気は抜群で日本にいるようだ。日本を懐かしく思い出しながら新鮮な刺身と寿司をいただく。米と魚と醤油の有難さをしみじみと思った。

参考サイト
Hyatt Regency Istanbul http://istanbul.regency.hyatt.com/
豊レストラン http://www.yutakarestaurant.com

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Monday, September 11, 2006

イスタンブール旅行 vol.4

イスタンブール旅行の話であるが、今回はサッカーについてである。

イスタンブールには名門クラブが3つある。
ベシクタシュ(Beşiktaş)とフェネルバフチェ(Fenerbahçe)。後者は前日本代表監督のジーコが監督に就任して日本でも名前が知られたかもしれない。順不同であるが、最後にガラタサライ。トルコ語では「Galatasaray Istanbur Spor Kulübü」と綴る。英語訳すると「ガラタサライ・イスタンブール スポーツ・クラブ」。開催中のUEFAチェンピオンズ・リーグにおいて明日から行われるグループリーグにトルコから唯一出場するクラブでもある。
実はこの名門クラブは、ルーマニアとも関係が深い。「東欧のマラドーナ」とも言われたルーマニアの國民的英雄と言われる元サッカー選手ゲオルゲ・ハジ(Gheorge Hagi)のクラブ時代で最も輝いていた時期がこのガラタサライ在籍時であった。在籍期間は彼の晩年の1996年から2001年であり、この間にガラタサライ史上2つしかない欧州タイトルである1999年-2000年シーズンのUEFAカップ(欧州サッカー協会連合杯)と2000年のUEFAスーパーカップを制覇している。
ハジは現役をガラタサライで終えた後、ルーマニア代表、そしてトルコリーグのブルサ・スポーツの監督を歴任した後に2004年3月にガラタサライの監督に就任している。その後、ルーマニアのポリテフニカ・ティミショアラを率いた。併し監督としての結果はいずれもファンの期待を裏切るものであった。取り分けルーマニア代表を率いた戦績はハンガリー、スロヴェニア、グルジアといった決してサッカー強國とは言えない相手に対し4試合で1勝2敗1引き分けという戦績で数ヶ月で降板に至った。裏を返せば、この人事は國民的英雄と言えども、それだけにサッカーに厳しい國民性が見て取れる。
一方で2000年から2002年にかけてガラタサライを率いたルーマニア人監督ミルチャ・ルチェスク(Mircea Lucescu)は、2001年-2002年のシーズンにおいてクラブを3シーズン振りにトルコリーグのチャンピオンに育て、翌シーズンは、ライバルのベシクタシュで指揮を執りリーグ優勝に導いていることから名監督の呼び声が高く、監督としての名声はハジと明暗を分けている。只今ルチェスクは、ウクライナリーグの名門シャフタール・ドネツク(FC Shakhtar Donetsk)で指揮を執り、現在開催中のチャンピオンズリーグのグループリーグに出場を果たしている。國内では、もう一つの雄ディナモ・キエフとリーグ常に首位争いを演じている。余談だが、我がステアウア・ブクレスティは明後日にキエフにて今季のUEFAチャンピオンズリーグのグループリーグ初戦をディナモ・キエフと戦う。

さて、イスタンブール旅行に何故サッカーの話題かというと、この滞在中に私の好きな日本人選手稲本潤一がガラタサライへ移籍したというニュースを知ったからである。稲本のプロ選手としてのスタートは、J・リーグのガンバ大阪(GAMBA OSAKA、在籍は1997年-2001年)である。ガンバ大阪は小生の地元クラブでJ・リーグ設立から贔屓にしている。稲本在籍時のガンバ大阪はまさに暗黒時代であり、試合観戦の唯一の楽しみが彼の活躍であった。その後の彼は英國へ渡りほんの少し活躍するものも出番が少なくなり、渡り歩いたチームは2部リーグへ転落したりと不運が続いた。併しそのチームですら出場機会は少ないままで、冷や飯を喰わされていたといえる。その彼がトルコの名門チームへ完全移籍というのであるから、これは大ニュースである。
今シーズンの移籍期限の8月31日にこのニュースが発表され、翌9月1日に入団発表が行われた。背番号は23。



Fotospor紙 10面(上)と最終面


翌2日午前中にガラタサライのファンショップへ出掛けて今シーズン仕様のホーム用レプリカユニホーム(シャツ)にINAMOTOの名前と背番号23をつけてもらい購入した。このショップは以前にも来たことがあり、その際はハジの現役当時のデザインでホーム用をHAGIの名前と背番号10で購入した。店員によるとレプリカ購入者第一号だという。「稲本、レプリカ、2006年-2007年、ホーム」とオーダーすると、店員はつたない英語でスポーツ紙を見せ「23だ」と言い、親指を立てて微笑んだ。出来上がりを早速Tシャツnの上に着てイスタンブールの新市街の中心タキシム界隈を歩くと、「イナモト」という声が数十回も聞こえた。子供に至っては小生をイナモトと思っているのだろう。トルコ語で話し掛けてくるのだがさっぱり分らない。「イナモト」と呼びながら小生を指すことを繰り返す。入団会見でもそうだったが稲本は金髪である。それ以前にサッカー選手である。身長170cmに及ばない小生をサッカー選手に間違えるのはやはり子供だからであろう。更に言うとサッカー選手がジーンズを穿いてユニホーム(シャツ)を着て人通りの多い歩行者天國を午前中に歩いている筈がないのである。併し知名度が抜群であったことに本当に驚いたのである。
その稲本は、先週末のトルコリーグにデビュー。先発して90分フル出場というのは、冷遇された最近ではなかなか機会がなかったことである。今年6月22日のFIFAワールドカップの1次リーグ最終戦のブラジル戦以来であるが、その前は3ヶ月前の英國ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン(West Bromwich Albion)在籍時代のマンチェスター・ユナイテッド(Manchester United FC)戦(3月18日)にまで遡る。

ガラタサライは明日9月12日にUEFAチャンピオンズリーグのグループリーグ第1戦をイスタンブールでフランスのボルドー(FC Girondins de Bordeaux)と戦う。チェンピオンリーグだけでなく今後の稲本の大活躍を期待したい。 



購入したレプリカユニホーム(シャツ)


参考サイト
Galatasaray Istanbur Spor Kulübü http://www.galatasaray.org/
Beşiktaş Jimnastik Kulübü http://www.bjk.com.tr/
Fenerbahçe Spor Kulübü http://www.fenerbahce.org/
Bursaspor http://www.bursaspor.org/
FCU Politehnica Timisoara http://www.poliaektimisoara.ro/
FC Shakhtar DonetskDonetsk http://shakhtar.com/
Dinamo Kiev http://www.fcdynamo.kiev.ua/
稲本潤一オフィシャルサイト http://campo.jp/inamoto/
ガンバ大阪 http://www.gamba-osaka.net/
West Bromwich Albion Football Club http://www.wba.premiumtv.co.uk/
Manchester United Football Club http://www.manutd.com/
FC Girondins de Bordeaux http://www.girondins.com/


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Saturday, September 09, 2006

イスタンブール旅行 vol.3


スルタンアフメット・ジャミイ(1616年建立)
ボスポラス海峡の奥にアジアサイドが見える


イスタンブールは大都会である。
この街が2012年の夏季五輪の開催都市に立候補したのを憶えているだろうか。
結果は周知の通り、北京五輪に続く都市は英國の首都ロンドンである。
因に、我が國からも大阪が立候補していたのだが、立候補5都市の中で最初の選考で漏れたことは、もうみなさんの記憶に無いかもしれない。少なくとも大相撲大阪場所で土俵入りを望み続ける太田房江大阪府知事は記憶に留めないようにしていると思われる。
話が逸れたが、ブカレスト在住の友人とっては、このイスタンブールは正に大都市と映ったことであろう。ブカレストの人口は210万人(2002年)に対してイスタンブールのそれは1200万人(2003年)である。
ところで、ブカレスト五輪はいつ開催になるのだろうか。

今回はイスタンブール初訪問となった友人を伴っていたこともあり、観光地である旧市街スルタンアフメット地区は外せない観光スポットとなった。つまり小生がガイドである。
トプカプ宮殿は外観のみの見学となったが、対峙するブルーモスクの名称で有名なスルタンアフメット・ジャミイを訪問した。因にトプカプ宮殿と違い、入場の為の拝観料は要らない。
イスラム寺院であるから、イスラム教徒が参拝する。これは当然の話ではある。一方、信仰が大らかな國民性故か、宗教に真摯向かない日本人の場合、観光で訪れた寺社仏閣は、参拝というよりも訪問(もしくは観光と言っても良い)が第一義であると思われる。彼らは賽銭を投げ込み願い事を込めて祈るのではあるが、参拝に来たというものではない。初詣等は例外であるが、これもイヴェント化してる感は否めない。

つまり、言いたいことは、観光スポットであってもイスラム寺院には信仰上の理由で参拝に来る人が日常的に見られるということである。礼拝時10分ほど前からイスタンブールの各イスラム寺院からスピーカーで独特の節が流れる。屋外であればどこでも聞こえると言う。これは拡声器の音量という理由だけでなく、イスラム寺院の多さをも意味する。
コーランの一節なのだろうか。放送を耳にする度に、砂漠と無縁のイスタンブールで映画「シェルタリング・スカイ」をワンシーンが脳裏を過ぎった。


スルタンアメット・ジャミイでは世界中からの観光客が各國語のガイドブックを片手に溜息をついていた。
それほどまでに美しい内部はイズミックスタイルの幾何学的文様のタイルと高い天井から吊られた巨大なシャンデリアの灯り、そしてステンドグラスで彩られており、キリスト教会とは違い広々とした空間の床に敷かれた赤いカーペットに見学者は座り、あるいは寝そべり感嘆するのである。


スルタンアフメット・ジャミイ(内部)


ここで、マナーの問題に触れたい。
イスラム寺院内部においては女性は髪を見せてはいけないと言われる。通常女性訪問者はショール等で隠すのだが、そうしていない女性も多数見られた。その他にも土足厳禁の内部といえども寝そべるという行為も少なからずあった。確かに天井は高く、それを楽に見続ける為にこのように見上げることは、この空間を改めて広々としたものであると、苦痛を感じずに実感させるはずである。それは察するに、砂漠で満天の星空を見るような心地であろう。併し忘れてはいけない。イスラム教徒は聖地マッカの方向に向いて礼拝を行う。つまり、イスラム寺院においての正面は即ち聖地といえる。そこに足を向けるのことは、イスラムの礼儀作法を知らない小生であるが、行儀がいいものとは決して思わない。
我々が内部に座って感嘆している間にも、日本人女性6人グループが訪問していた。ツアーガイドであろうトルコ人と思われる女性が、流暢な日本語で説明をしていた。併し、この計7人は一人も髪を隠していないのである。この寺院の関係者が観光客に、都度注意をしていたということは、それだけ「違反者」多いということを意味する。髪を隠して座っている女性にも注意を与えたので疑問に思ったが、直後その女性は、腰のあたりからのぞいいたカーペットと同じ色の紐状のものを隠した。指摘される方も恥ずかしかったことだろう。
小生は宗教というものは、それが各人の信仰外のものであっても敬意を表すべきと考える。

続いて、この地区にある「地下宮殿」も訪問した。
ここは、以前からガイドブックで知っていたが、これまで未訪問だったところである。
かつての水瓶つまり貯水池として利用されていたものを公開しているのだが、この空間には柱が何本も立ち建築物であるということが分る。体育館に程の空間には現在も水はあるのだが、水深は30cmくらいだろうか。通路が作られ、池の上を順路に従って歩く見学コースからは魚影も見られる。自然光が全く入らない環境であるから、深海魚のように視覚が退化するのではないかと気にしてしまう。一方でこれらの魚がいつからいるのかも興味深い。


柱の袂に魚影が見える
地下宮殿


地下宮殿のハイライトはメデゥーサ像である。ギリシア神話でおなじみのぺルセウスに退治された髪の毛が蛇という怪物である。見た者を石に変えるといえば、名前はともかく膝を打つ方もいらっしゃるのではないだろうか。以下の写真の通り、首が立てられていない。即頭部が柱で押さえれているところに「退治」の意を感じる。


柱の下部のメデゥーサ像
地下宮殿


参考サイト
地下宮殿 http://www.yerebatan.com/indextr.html

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Tuesday, September 05, 2006

イスタンブール旅行 vol.2


8月28日の日の出 イスタンブール・ガラタ橋から



小生のイスタンブール訪問は1999年10月、2002年11月、2003年2月に続いて今回が4度目である。
暑い時期の訪問は今回が初めてであるが、ブカレストと大差はない。海に面した街であるが、湿度についても気にならない程度であった。つまり気候においては旅先という気がしなかったのである。前日の到着後は既に述べたとおり熟睡したのだが、その後は食事とサウナのために起床して体調を整えた。
翌日は一夜が明ける前に、旧市街にあるアクサライ(Aksaray)地区へ友人を迎えに出掛けた。友人は我々から一日遅れてブカレストを定期バスで出発しイスタンブールへ向かっていた。
ブカレストを前日の15時に出発しイスタンブールへは翌朝5時から6時に到着。到着地の住所も知らないために小生は4時過ぎにハイヤーでアクサライ地区に到着した。小生の宿は新市街のベシキタシュ(Besktas)に位置してるので歩いて行ける距離ではない。
アクサライは以前にも歩いたことがあるエリアではあるが、そのどこに目当てのバスが到着するか分らない。ラレリ(Laleli)、ウニヴェルシテシ(universitesi)との名前を聞いていたのでそれを頼りに歩くことになるのだが、アクサライの交通の要所である大交差点の一角に路面電車のラレリ駅を見つけたものの、バスターミナルや停留所の類はない。日も昇らない4時半過ぎにその交差点では大勢の警察官が通行車両の点検を行っていた。数日前からトルコの地中海沿岸のリゾートで爆発騒ぎが頻発していたからである。滞在中にはイスタンブールでも爆弾騒ぎがあった。
ハイヤー以外は全て停止を求められていたが、中には気付かずに通過する車両もあった。併し警察官は「あー」と言うだけで追うわけでもなく、無線で同僚に呼びかけもしなかった。このような早朝からご奉公される彼等にバスの到着について尋ねるが、残念なことに誰も知らなかった。かつて歩いた際に裏通りからモルドヴァ共和国の首都キシニョフ(Chisinau)行きのバスが停車していたことを思い出し、地図を片手に裏通りを歩くが、電灯もなくひっそりとしており不気味であった。この界隈を歩いている内にウニヴェルシテシの路面電車駅の近辺に出た。この駅はラレリ駅の一駅隣である。その時、友人の乗るオルタゴグ社のバスが小生を追い越して行った。バスの消えていった角まで走って追いかけて行くとそこで乗客が荷物を取り出している。
素直にこの2点を歩いておけば上り坂であるが5分ほどだったろう。到着地の住所を聞いておくことを教訓として学んだ。
オルタゴグ社の事務所前に停まったバスのすぐ先にはこの区間を運行する他社の事務所があった。後日この界隈を散策した時には少し離れたところにも他社の事務所を見つけた。ブカレストからイスタンブールの間には数社が毎日運行しているが、いずれもこの地区からの発着のようだ。アクサライから西にある巨大なバスターミナル(オトガル=otogar)からの運行でないことが意外だった。

無事に友人との再会を果たし、新市街の宿へ向かうべく始発が運行始めた路面電車に乗車。イスタンブールを初めて訪問した友人に車窓からスルタンアフメット(Sultan Ahmet)地区にあるイスタンブールで最も有名な建築物であるトプカプ宮殿とブルーモスクの名で知られるスルタンアフメット・ジャミイを案内。車窓から見ることの出来るのはスルタンアフメット駅の停車時間を入れてほぼ1分ほどなのだが、見慣れないイスラム寺院とその大きさに興味津々の様子であった。空が白み始めたので、シルケジ(Sirkeci)駅で下車する。ここはトルコ国鉄のシルケジ駅の正面にある。かつてはパリ発のオリエント・エクスプレスの終着駅であった名誉ある駅であるが、その面影は構内のレストラン「オリエント・エクスプレス」にしか見られない貧弱な駅である。余談であるが、かつてのオリエント・エクスプレスはブカレストを経由しており、戦時中中立国であったトルコのイスタンブールへ日本の政府及び軍関係者を運んでいる。さらに余談ではあるが、当時のブカレストには「日本のシンドラー」として有名な外交官杉原千畝も駐在(1942-1947)してこともあり、ブカレスト以南はいざ知らず、きっと彼もこのオリエント・エクスプレスに乗車したのだろうと空想を巡らす。

このシルケジ駅のすぐそばにエミノニュ(Eminonu)桟橋がある。
欧州大陸と亜細亜大陸に跨る大都会イスタンブールの水上交通は見事なもので、ヨーロッパサイドとアジアサイドにいくつかの桟橋があり、連絡船がボスポラス海峡を東へ西へとピストン航行している。
ヨーロッパサイドにおける新市街と旧市街の境界がこのエコノミュから西へ少し延びる金角湾である。動物の「角」のような細長い形を地図上に表すこの湾の「金」の意味は朝日の輝きとそのリフレクションに由来すると言う。時間が時間なのでこの金角湾をの入り口にいる我々は対岸のカラキョイ(Karakoy)に架かるガラタ橋で朝日を拝むことにした。亜細亜から昇る太陽は、欧州から出たことのない友人もそうだが、日の出る國から来た小生には感動的であった。橋には既に15人程が釣り糸を垂れていた。

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Monday, September 04, 2006

イスタンブール旅行 vol.1



8月27日の日の出 ブルガリアにて


夏休みをとった小生は外国旅行をすることにした。
行き先はトルコのイスタンブール。
知人がイスタンブールへの用があり、便乗することにした。
便乗というからには、交通費はがロハになるという意味を読み取って欲しい。
空路では1時間ほどの旅行となるが、自動車ではそうはいかない。
昔「飛んでイスタンブール」という歌謡曲があったが、今回は陸路およそ700kmを自動車での旅である。
8月26日深夜出発。途中ブルガリアを経度に沿って縦断する格好で南下する。
出発に深夜を選んだ理由の大きなものは、國境の通過時間にある。
つまり空いているということである。
今回通過した國境はルーマニア側がジュルジウ(Giurgiu)、ドナウ川を隔てたブルガリア側がルセ(Rousse)である。
ところで、ルーマニア側の官吏は全くもって腐っている。欧州連合から2007年の加盟を持ちかけられたいる國ではあるが、その条件が汚職追放である。官吏の汚職はどこにでもある。我が日本國にも残念ながらある。併し、欧州連合から加盟の条件に指定されていることを考えれば、それだけ汚職が日常化しているということだ。今回は往路10RON(およそ400JPY)、復路は積んでいた葡萄一房を請求された。もっとも往路は「同僚がコーヒか水が飲みたい」という婉曲的表現だった。自身のために欲しいとは言わず、「同僚が」というところにルーマニア人に良く見られる姑息さを感じる。
一方のブルガリアの官吏は意外なことに何ら問題なし。意外というのは、欧州連合が今年に加盟への中間報告をした際に、同じく来年元日に加盟を希望しているブルガリアの方が汚職が酷いとの発表をしていたからである。この発表の時にルーマニア人の知人は何かと張り合っている隣国に優越感を話してくれたことが懐かしく感じたのである。
一方道中は波乱の幕開けになった。ブカレストを離れた直後に雷を伴う大雨に遭遇した。雨粒は自動車のフロントガラスにほぼ直角にあたり視界が大変限定された。ブカレスト市内と違い良く舗装された道であったがお陰で安全運転を強いられた。國境を通過するとルセから観光地ヴェリコ・タルノヴォ(Veliko Tarnovo)、バラ祭りで有名なカザンラク(Kazanlak)、ストラ・ザゴラ(Stara Zagora)、ディミトロヴグラード(Dimitrovgrad)を経てハズコヴォ(Haskovo)までE85を南下。そしてE80を東へ進みトルコとの國境へ、その後は高速道路をひたすら東へ進む。250km先がイスタンブールである。
片側3もしくは4車線の高速道路は快適そのもの。交通量が極端に少ないのもその理由だ。但しイスタンブール近郊からは混みあうそうだが、この日は日曜日で渋滞には無縁だった。
東ローマ帝国の首都だった当時のコンスタンチノープルへ到着したのは8月27日の正午前。11時間の道のりだった。運転の一旦を担った小生も徹夜に疲れて、F1トルコ・グランプリをテレビ観戦しながら、夕方まで熟睡した。

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