秋の陽だまり
どういうことだろうか、先だって秋がほぼ終わったようなことを綴ったのだが、晴天の下、本日ブカレストの日中の気温は22度であった。Tシャツ一枚という装いも多く、大学広場近辺では、へそだしルックの女学生たちを久し振りに目にした。スーツを着用していた小生は、汗ばむ陽気にネクタイを緩めて涼を求めることが唯一の抵抗だ。
先週末に出掛けたモルドヴァ共和国ワインフェスティヴァルの会場であった議会広場のすぐそばのお客を訪ねたあと、次のアポイントメント先までの小一時間を徒歩で移動することにした。直線距離では2km程度であるが、國民の館の北側に広がる緑一面のイズヴォル公園を斜めに移動したお陰で地図上は殆どロスのない道程となった。
緑一面といえども、その緑は芝生のようで実は芝生で無いようにも思える。日本のそれのように丈は短くはなく、そこに踏み込むと履物が隠れるくらいである。舗装された歩行者用の通路もあるのだが、それは、ほんの一部であり、四角い敷地のところどころに自然的かつ人工的に形成された道があった。緑の中にそれは一縷の土の色を見せる。つまりは、けものみちと同じ理由でつくられたものだ。ただ、面白いことに、それらはほぼ平坦で唯一の障害物に成り得る樹木のないルート上においてまっすぐに伸びていない。臨終が近いの患者の脳波の幅と例えようか。他の言葉で表現してみると、野球における走者は塁間の直線から3フィートの幅の走塁を認められているので、それ以上に幅があるといえば良いだろうか。野球の塁間27.431mに対して、本日歩いたけものみちは200mくらいであるから、この例えも良いもので無いかもしれない。いずれにせよ賢明な読者諸氏には頭で描いてくれた様に思う。
長い前置きになったが、何故、この条件でまっすぐなけものみちを先人は歩まなかったのか、という疑問が小生に起こったというだけのことだ。
公園を北西角で後にすると、目の前には運河に架かる小さな橋である。信号待ちをしていると、車のクラクションが複数回鳴る。この國では、特にブカレストにおいては習慣とも言うべきものである。信号が青になって1秒いや一瞬のうちに前で信号待ちをしている車が動かい、もしくは右折左折がままならない時は、即クラクションを鳴らすのである。それも長い間鳴らし続けるのである。この行為は運転者が老若男女問わずに行なわれる。小生が民度が低いと考える行為の一つだ。信号待ちの歩行者には、耳が痛いほどの音量である。
公園を一歩あとにすると天気も気温も同じなのに、この時期においては非現実的とも言える心休まる秋の陽だまりの余韻を掻き消されてしまった。文字通りに。
次の週末もこの気候であれば、是非愛読書『坂の上の雲』を持って出掛けよう。秋が終わるというのに今年は読書の秋を楽しんでいない。
Labels: ブカレストの日常
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